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ギャラリーの大半が倒壊してしまいました。

沿革

江戸時代の後期に興した細谷漆器店がベースです。
細谷家の先祖:助左衛門は江戸時代の寛政年間(1790年代)に輪島市細屋地区から輪島町内に出て弟:勘右衛門と二人で素麺屋を始めます。二人が作る素麺は高品質で忽ち評判になり、加賀藩御用達として中居を介して買い上げられ金沢や高岡に送られていきました。納品されると前田藩の食用や江戸幕府や各地の大名、京都の公家に進展用に使われた記録が残っています。併せて地元の寺院(曹洞宗大本山:總持寺)等を介し全国の寺院に送られ、各地に広まったようです。「北陸に輪島素麺あり。北陸の名物なり」と呼ばれるくらい高い評価を得ていました。
兄弟は協力し合いピーク時には町内に75軒(兼業含む)あった素麺屋の元締めとなり、町の筆頭組合頭になります。現在でいう商工会議所の会頭。2人が勇退した後も、助左衛門の子:兵右衛門、続いて勘右衛門の子:官兵衛と久之氶が筆頭組合頭になる。以降、両一門からは常に一人ずつ組合頭を出していました。後に勘右衛門は町の肝煎り(今でいう町長)になっています。

然し乍ら、輪島素麺の興盛は長くは続きません。能登半島内では珠洲町をはじめライバルとなる生産地が出現、他国との競争も激化します。原料の小麦は越後や越前から買い付けするも、その地域も素麺の大きな消費地:顧客だったこと。素麺の生産は女性が主な担い手であり、生産地からの依頼により生産技術をもった女性を現地に連れて行き、技術を伝授させた事案が後を絶ちません。同時にブランド化した輪島素麺は品質悪化や目方の誤魔化しが続き評判を落としてしまいます。
そうした中で危機感をもった助左衛門、勘右衛門兄弟は失墜回復策として「素麺商売家定書」並びに「素麺家中定書」(連判書)を続けて起案(文化10年:1813年)。「素麺家中議定連判書」にて素麺の品質向上、他国への技術移転禁止、「素麺家中定書」では素麺職人の生活向上を目的に手当ての基準を作り組合員に徹底させました。75名の筆頭に助左衛門、息子:兵右衛、弟:勘右衛門の記名捺印があります。
理由は、各素麺屋が雇用する職人の手当てが低いと、モチベーションが下がり品質が落ちる傾向があることを2人は分かったからです。これはいつの時代も変わらないテーマだと思います。

然し乍ら、生産技術もそれ程高度ではなかったことや、輪島港は北前船の主要な寄港地だったこと、併せて、生産道具も輸出されていったことから、輪島素麺は江戸時代末期に徐々に衰退していくことになります。助左衛門が亡くなり、その孫の代になると、一門は素麺から撤退し豆腐屋に転換していました。勘右衛門が亡くなっても、その一門は三世代に渡り素麺屋を続けていました。
2つの一門も江戸時代末期には、豆腐屋、素麺屋を廃し、輪島塗に職を変更。私の高祖父:彦左衛門は輪島塗の職人になりました。それが我が先祖による輪島塗の始まりになります。

※細谷漆器店の印には助左衛門の「助」の字が刻まれています。
江戸時代、輪島塗りは高額故に輪島の商品が割賦制度を開発。それまでは武士や商人、寺社、旅館、料理屋に限られていた輪島塗が一般庶民にも普及する要因となる。細谷漆器店のロゴは一門の創始者:助左衛門の名前の一文字「助」と社会貢献の「互助」を掛け合わせています。